神様が、人の心を正確に読み取る為の器官を作らなかったのは何故か。
心のフィルターを通して紡がれたツールを言葉と呼ぶ。
が、驚くべきことに、このツールには普遍性が無い。
赤は赤、青は青といった普遍性が無い。
単一の意味を持ち放たれたツールが、夏の空にはじけて
残滓がしつこくこびりついて離れず
時に亡霊のようなフラッシュバックを経験させる。
この不確かなツールを持ち寄って形成されたコミュニティを社会と呼ぶ。
社会は複雑だ。
誰も誰かの心の核心に迫ることはできない。
言葉との不自然な歪みに心は摩耗し、あるとき、胸にぽっかりと穴が開いて、
背中まで貫通してしまった。
恐るべきことに、この穴は何を持ってしてもどうにも埋まる気配がない。
その影響は小さくなく、今まで私を悦ばせたどんな風景も、どんな音楽も
我慢ならないほどに私の心は憔悴しきっていた。
そんなある日、私はとある雑誌でこの穴に関する記事を発見する。
どうやらこの穴に悩んでいるのは私だけではなく、
それどころか世界中に同じ悩みを抱えた人が存在するらしい。
私は歓喜した。
一生解決不可能だと信じて疑わなかった問題が、実はそうではなかったのかもしれないと
一筋の希望が見えた。
自分ではない他人の存在に、生まれて初めて感謝をした。
するとどうだ。
それと同時に、あの忌まわしき穴も埋まっていくではないか。
あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛れていく。
この不審で逆説的な事実に私はうろたえ、そして再び歓喜した。
もはや悩む必要はないと、安堵した。
それはパズルのピースが埋まるような、必然性をも感じさせる奇妙な感覚だった。
この経験を、どのように定義づけるべきか、
その答えは未だ見つかっていない。
私の胸の穴を埋めたものが一体何だったのかさえ、よくわからないといった有り様だ。
なるほど、今まで不審に思えてならなかった「言葉」という代物は、
こんな時にこそ必要であったのだ。
心は決して完璧にリンクし得ない。でもだからこそ、
私たちは永遠に言葉を紡ぎ、共に答えを探し続けるのだろう。
とりあえず私は、この胸の穴を埋めた得体の知れない物体を「愛」と名付け、
同じ症状に苦しむ世界中の人間の胸にそれをぶちこむ旅に出るつもりだ。
あ、それはそうと、クリスマスって12月22日で間違いなかったですよね?