ここ飛鳥浄見原神社の鎮座する地は、上古より尊き地とされてきました。
初代・神武天皇がこの辺りへさしかかった折、尾のある人が岩を押し分けて出てきたので、「おまえは誰か」と尋ねたところ、「天津神の御子が来られる、とお聞きしたので、お迎えに参りました」と答えました。
これが、浄見原神社鎮座地の初見となります。
又、今から約1600年前の応神天皇の御代、天皇がこの地に来られたとき、国栖の民がこれをもてなし、一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の初まりとされています。
さて、御祭神の天武天皇(当時は大海人皇子)は、西暦671年、兄・天智天皇からの譲位のご意向を辞退、周囲の権力闘争に巻き込まれる事を避け、吉野の宮(宮滝)に入り、隠棲されました。
しかし、大海人皇子を敵愾心する者らは皇子の命を狙い、宮滝へとやって来ました。
彼らに襲われたところを、国栖の人たちに助けられました。
大海人皇子は助けてくれた国栖の人たちに「国栖の翁」の名を与えました。
翌年、大海人皇子は天智天皇の皇子・大友皇子を滅ぼし、飛鳥浄御原宮に即位し、天武天皇になります。
後に「国栖の翁」は、浄御原宮で舞を奏したりし、やがて、天武天皇を祭る神社が作りました。それが浄見原神社です。
大海人皇子に、一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏した国栖奏が代々受継がれ、毎年旧正月14日に天武天皇を祭る浄見原神社で奉納されます。
天武天皇は日本の国柄を明らかにする為、「古事記」、「日本書紀」の編纂を行われました。
又敬神の御心に篤く、神宮の二十年毎に行われている式年遷宮の制度は天皇の御代にはじめられたものであり、謂わば、天武天皇とは日本の國體を確立された天皇と言えます。
神社本庁所属神主・楠公研究会代表理事・表千家茶道教授者・池坊教授・作家
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