「言語交錯 8/10」
ukiyojinguです。
「我が国の『流行歌~歌謡曲』を遡上に乗せ、それを『評論』する。と称して、多く社会風俗と自分の価値観を絡めたエセーを良い湯加減で書く。という行為ほど気持ちよくそして空疎なものはない。」(菊池成孔『CDは株券ではない』,2005年より)
音楽は一体、どこまで記号になるのだろうか。私たちの「崇高」という言葉は私たちが支持するものこそが崇高であるという誤った解釈によって、かつての位置を追いやられる危機に瀕している。事実ではないことがいともたやすく事実となりうる時代において、私たちの崇高は再生産され消費されていく。この時代において、崇高が元来どのような意味を持っていたかはもはや問題にさえならないのだ。閉じられた環境の中で消費を続ける私たちは、その外部に向かうことを放棄している点で、完全な世界の中にいる。
その中で、私たちの言葉は堕落した。記号的「自分語り」が蔓延る中、物語と言葉と向き合うことなく、己の好きな楽曲の好きな箇所のみをセレクトし、自分の好みとなるプレイリストの中に組み込んで延々と消費する。イントロの開始5秒で再生回数と評価が左右されてしまうこの時代において、アルバムの順番通りに冒頭から聞くような人は、どれだけ残されているのだろうか。
だが、このような憂鬱ももはや「自分語り」として消費される。そうやって、言葉は物語としてではなく、記号として消費されてしまう。その中で、私たちのすべてが崇高なものとなり、各々が掲げる崇高に基づいた「完全な世界」の中に閉じこもる。この堕落のすべての責任は、言葉を用いる私たちのすべてにあり、そして、言葉の表現者たる作り手たちに、可能性はまだ隠されている。いやむしろ、「完全」の向こう側をあきらめた表現者は、もはや表現者を名乗るに値しないのかもしれない。
安易に再生産されうる崇高から身を守るには、もはや「言葉が安易に伝達できない」ことを伝達しなければならない。すべての意志が共有されうる、「完全な世界」の向こう側にある不完全を求めている。
そうして、私は語る資格さえも失うのだった。
ukiyojingu作品集『思考実装』2022.12.30 release
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