豊臣秀吉の指揮のもとに行われた朝鮮出兵、1592年の文禄の役、および1597年の慶長の役を通じて日本軍はおよそ10万人にもおよぶ朝鮮人捕虜を日本に連れ帰ったが、その多くが日本での農業などの労働力として供給されたり、あるいはルソンや中国、印度などへの人身売買に回される中、慶長の役の時、朝鮮半島南部の全羅道で拉致された朝鮮人朱子学者であるカンハンは
日本人がよく理解してなかった朱子学の宇宙哲学部分や陽明学への走りとなるような陸象山などの宋代以降の朱子学を熟知する者として重宝され、拉致した伊予の藩主・藤堂高虎は日本の将来の治世思想として役立つことを見据え、他の拉致朝鮮人たちとは区別して丁重に扱い、やがて豊臣秀吉が関白の職を甥の秀次に譲り、住居を聚楽第から伏見城に移した際、藤堂高虎ら諸大名も京都屋敷を伏見に移し、その際、秀吉からの要望でカンハンも伏見に移動することとなった。
京都伏見に移ったカンハンを待っていたのは熱心に儒学の研究をしていた禅宗の僧侶らや医師らで、その中に、のちにカンハンから学んだ朱子学理論を後世の日本に伝えていくバトンやくをした藤原惺窩もいた。
江戸時代に入ると朝鮮との国交回復を目指していた徳川家康の友好外交政策のもとでカンハンは帰国を許され、およそ3年間に渡る日本抑留滞在を終え朝鮮へ帰国の途についた。
日本におけるカンハンの歴史的役割は、その後の江戸時代の儒学を築く基盤となり、数多くの日本の儒学者たちを輩出し、幕藩体制を支える武家の基本理念にまで発展し、そしてその儒学研究はやがて急進的な陽明学へとシフトし、やがては皮肉にもその幕藩体制を倒す革命のエネルギーにまで昇りつめていくことになったのである。