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https://bit.ly/3nvOnmpイル・ド・ラ・シテはパリ発祥の地で、俗に「パリの目」とも呼ばれるが、文化史的に見ると、それは同時に「フランスの目」でもあった。
その位置をパリの地図についていうと、セーヌ河が南東から中央に山形を描いて南西の方へ流れている。
その山形の右寄りの肩のあたりで、セーヌは幅広くなって、二つの島を浮かべている。
右が聖ルイ島で、左がイル・ド・ラ・シテである。
■一部抜粋
イル・ド・ラ・シテは今から二千年前、ユリウス・ケーサルが今のフランスの地に侵入していたゴート人を撃退した頃は、ラテン名でルテティアと呼ばれ、セーヌはセクアナと呼ばれていた。
ルテティアはその後ローマ帝国の支配の下に次第に繁栄し、村から町となり、しばしばローマ皇帝の行在所となり、重要な都市的機構を持つようになり、聖ドゥニ、聖ジュヌヴィエヴなどの時代を経て、シャールマーニュ帝の頃また大いに発展し、くだってカペ朝のフィリプ・オーギュストはパリを拡張し、ルイ九世は更に輝かしい功績をパリの歴史に加え、近代のパリ繁栄の基礎を作り上げた。
イル・ド・ラ・シテは長い間パリの中心であっただけに、今でも主要な建物がいろいろ遺っている。
ノートル・ダーム、サント・シャペル、パレー・ド・ジュスティス等がその顕著なものである。
ノートル・ダームの大寺はローマ時代にはユピテルの神殿のあった位置で、イル・ド・ラ・シテが「パリの目」なら、ノートル・ダームはその「瞳」だといってもよい。
ここに寺の建てられたのは四世紀の半ば過ぎで、初めは聖エティエンヌと呼ばれていた。
それを聖母ノートル・ダームに捧げる寺にしたのはいつ頃からかよくわからないが、ヴィクトル・ユーゴーに拠れば、シャールマーニュ帝が最初の礎石を置いたというから、そうすると八世紀の末か九世紀の初めであっただろう。
今の建物は十二世紀の後半から十四世紀の初期までかかって完成されたもので、荘厳無比のそのゴティク様式は、ランス、アミアン、シャルトル等の大寺と共にフランスの誇りであり、書けばそれだけでも一冊の本になるほどの資料がある。
サント・シャペルは昔の王宮の礼拝堂で、聖ルイが第七・第八十字軍遠征から持って帰った遺物を納めて礼拝するために建てたもので、フランス建築史の上では最も重要な建物の一つである。
私たちを案内した吉川君が一番にここを見せてくれたのもその意味からであった。
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