我が武と神速は、強者と戦うためにあり!!魏国五大将軍筆頭:
張遼。字は
文遠。
呂布の養父:丁原に仕え、丁原→何進→董卓→呂布→曹操と仕えた(※)
(※忠義を尽くした主が殺害された為に主が変わっているだけであり不忠ではない)
どの主に仕えていた時も最前線を担当した生粋の武将であり
下邳の戦いにて呂布軍が曹操軍に降伏した後
曹操は自分の売り込みに入った呂布は一切信用せずに処刑したが
張遼の人格を信頼して失うには惜しい人材と判断した曹操は、張遼を家臣へと向かえた。後に赤壁での仇敵である呉軍が魏国領内の合肥城に侵攻を開始。
兵力10万の呉軍に対して合肥城側の戦力は7000。もはや絶望的な戦力差だった。
合肥城の守りを任せられた将軍は
張遼・楽進・李典の3人だったが不仲で有名だった(正史記述)
しかし、各々名将であり、
国家の一大事に私心で協調しない愚者は存在しなかったのである。
亡国の危機に一致団結した3将は戦力差14倍の呉軍をボコボコにして敗走せしめた。
特に、張遼は精鋭800を集めて呉軍10万に対して突撃。玉砕どころか呉軍を大混乱に落とし入れ
孫権を討ち取る手前まで迫って大将旗すら奪い、文字通り「三国無双」の奮闘を見せた。(これは三国志演義での記述ではなく、
正史の記述である)
ちなみに日本で言う「泣く子も黙る○○」とは
この敗戦がトラウマになった呉国側で子供の駄々や泣きを黙らせるために出来た言葉
「遼来来[遼来遼来]」(張遼が来るぞ! の意)が由来であると言われている。
長兄の英傑大戦:
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