ときハ今あめか下知る五月哉この動画には以下の要素が含まれます。・非初見(かなり前に一周だけクリア)
・合成音声(ソフトウェアトーク)
・茶番(少量)
・一般プレイスキル()
・録画ミス・機材不調を補う為の、後撮り映像の継ぎはぎ
・多用されるカット&早送り編集
・多量のニワカ歴史語り=音源サイト様(敬称略)=
魔王魂→
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VOICEVOX:四国めたん
VOICEVOX:ずんだもん
VOICEVOX:九州そら
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©コーエーテクモゲームス【追記】
新発見の書状は光秀本人の筆によるものであり、その日付は愛宕百韻の当日―
つまり謀反の三日前、五月二十八日に書いたものだったわ。
かいつまんでいうとそこには、自身が主の命で山陰出征する旨が遠国の国人宛てに書かれているくらいで、なんの変哲もない内容だったのよ。
それが意味するものは、光秀は謀反三日前の段階でも挙兵の最終的決断はできていなかったということ。
(遠方の人間に宛てている事から、偽装の可能性も限りなく低いわ。)
叛意を抱いていたとしても、具体的に挙兵をいつどこで行うかが決まっていなかった。決められていなかったのよ。
なぜならそれはすべては信長の出方次第だったから。天下人を打倒するには隙や油断を衝くしか、方法が無いからね。
そして翌二十九日、信長がわずかな手勢とともに上洛して本能寺に入った。
つまり彼が謀反に踏み切ったのは、入京した信長の警固が手薄だとわかったからだとみられるわ。
光秀は六月九日付で細川父子に宛てた書状において、謀反の事を「我等不慮の儀存じ立て候事」と表現しているように、光秀にとっても、謀反は性急な決断だったということね。
新発見の書状は謀反直前の光秀の心情に迫るものであり、これを裏付けるものだったのよ。