私の号令を聞いてくれぇ・・・聞けったら聞けよぉぉぉぉぉ!!河内源氏六代目棟梁:源義朝。その六男:
源範頼。
母は義朝の側室:遠江国池田宿遊女(正確な身分等は不明)。
源頼朝(三男)の異母弟にあたり、
源義経(八男)の異母兄にあたる。
平治の乱で没落した源義朝率いる河内源氏。
戦いには加わらなかった非戦闘員の義朝の息子たちは清盛の恩情によって死罪を免れ
後白河法皇近臣:藤原範季の下で養育。名を一字もらい「範頼」となった。
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
義朝の息子として、そして頼朝の弟として頼朝挙兵に呼応して参戦。
頼朝と不和が発生した木曽義仲に対して、義経と共に討伐に向かい
宇治川の戦いにて圧倒的兵力差によって義仲軍を叩き潰した。
続く平氏との戦いとなる
「一ノ谷の戦い」においても大将として出陣。
奇軍を担当する義経と、正軍を担当する範頼の連携によって快勝を収め
最終戦となる「壇ノ浦の戦い」においても
水軍を担当する義経と、陸軍を担当する範頼の連携で勝利を収めた。戦後、頼朝は武家による中央政権の確立に動き、諸将の独断行動を禁止とした。
一説では頼朝は平氏との戦いの時点で義経の独断専行を危険視していた為に義経を処断したとされる。
これを見た範頼は頼朝からの目付役に行動を逐一相談して対応を仰いでいたが
源頼朝が暗殺されたという誤報が彼の運命を狂わせた。
源範頼が北条政子(頼朝正室)に宛てた励ましの手紙に
「兄がいなくても私がいるので源氏は大丈夫です(要約)」と書いていたことで
源氏を乗っ取ろうとしている謀反疑惑が浮上してしまう。
範頼謀反の疑いは頼朝の中で徐々に膨れ上がりついには範頼を伊豆流刑に処し
範頼は流刑先で誅殺されたとも自刃したとも伝わる。
長兄の英傑大戦:
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