皆にもらった命の炎!
ここで燃やさず、何処で燃やせってんだよぉ!!河内源氏第5代棟梁:源為義。その長男であり嫡男格であった義朝と為義の仲は芳しくなく
代わりに次男:源義賢を嫡男格待遇としていた。
後に保元の乱にて為義・義賢は義朝と対立。義賢は義朝の長男である義平に攻められ敗死。
義賢の遺児である
駒王丸(当時2歳)は何とか難を逃れ信濃国豪族:中原兼遠を頼った。
この駒王丸こそが後の
源義仲である(信濃国木曽谷の地名から
木曽義仲を名乗った)
それから25年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布した際
これに誰よりも早く呼応して攻め上がったのが木曽義仲であり、各地の源氏軍の救援に成功。
そして源平合戦における大規模戦闘
「倶利伽羅峠の戦い」において
大勢の牛の角に松明を付けて突進させる
「火牛の計(戦国大戦に於いての代表的ダメ計の元ネタである)」を用いて平氏軍を大混乱に陥れて勝利を収めたとされる。さらに続く篠原の戦いにおいても戦力差8倍を覆し大勝。
大軍を失った平氏軍は義仲軍の進撃を止められずに京を脱出する憂き目にあった
(平家の都落ち)平家追討を成した義仲は
「朝日将軍(旭将軍)」と称され一時期は持て囃されたが
義仲は田舎育ちの武士であった為に、公家社会での処世術を持たないままであった。
さらに皇位継承問題に介入して後白河法皇との関係が劣悪となり、公家の悉くから嫌われてしまう。
加えて新宮行家らを匿ったことで頼朝との関係も悪化していた。
焦った義仲は朝廷に自身を
征夷(東)大将軍に任命させたが、頼朝軍に包囲されてしまう。
この頃になると既に人心を失っており、義仲に付き従うのは郎党のごく僅か。
頼朝軍5万以上に対して僅か400で立ち向かうが、対平氏で見せた奇跡的な勝利は起きず
最後は数騎にまで追い込まれた末に、矢を射ち込まれて討ち取られたという。
長兄の英傑大戦:
mylist/73130055