葵の紋の誇りにかけて、余が天下を改める!徳川幕府第8代将軍:
徳川吉宗。通称:米将軍 あるいは ご存知「暴れん坊将軍」。
徳川歴代将軍は第4代(徳川家綱)まで嫡流直系の将軍を立てていたが家綱に嫡子が無く早世。
その為に弟の綱吉を第5代将軍とし、第4代→第5代にて直系世襲制は崩れた。
続いて第5代綱吉も嫡子が無く甥(家宣)に継がせ、家宣の嫡子:家継が3歳になった時に家宣が死去。
さらに第7代家継が7歳で夭折。当然嫡子はいなかった。
これによって幕府直系世襲が完全に崩れ、
後継問題が発生したのである。
初代将軍 家康の遺言
「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家/紀伊家から養子(次期将軍)を出す」に従い
親藩御三家(尾張・紀伊・水戸)及び幕府要人の話し合いの末に次期将軍を選出。
家格は尾張が上位格だが尾張藩には「将軍位を争わず」の不文律があり
紀州藩に将軍位を譲った。
時の紀州藩主は藩財政を立て直した敏腕藩主:徳川吉宗。
吉宗は元は四男であった為、本来は藩主候補ですらなかった。
しかし、兄3人の急死・夭折によって紀州藩主に抜擢されており
それに続いて今度は幕府内直系の後嗣問題によって今度は
将軍にまで抜擢されたのである。
第8代将軍となった吉宗は幕府の財政改革を推進。
質素倹約を旨として、聖域扱いされていた大奥の人員削減を敢行。
江戸三大改革の一つ
「享保の改革」を推し進め
新田開発・米相場の操作・倹約令・増税(五公五民)等を実施した。
(全部が全部成功したわけではなく功罪両方の面を持つ改革ではあるが
その後の寛政の改革・天保の改革と比べた場合、
相対的に最も成功した三大改革と言える)
その後、存命中に嫡男:徳川家重に将軍職を譲り(※)その6年後、脳卒中によって死去したたとされる。
※急死対策として男児を複数出生させたうえで存命中に「長幼の序」的に最も妥当な後継を指名すること。
実はこれこそが将軍の最重要な仕事である(冗談のようにも聞こえるが事実これが最重要課題)
長兄の英傑大戦:
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