深き哀しみを越え、私は再び戦いに出る!伊豆国豪族:北条氏。北条時政の娘、
北条政子。
日本初の武士政権組織:鎌倉幕府の初代征夷大将軍、
源頼朝の正室である。
平治の乱にて河内源氏:源義朝が討ち取られ、義朝の嫡男たる頼朝は伊豆へ流された。
その頼朝の監視役となったのが伊豆国の地方官僚であった政子の父:北条時政であった。
当時の政子は4歳、頼朝は14歳であったが、20年にも及ぶ流刑の中で二人は恋仲となった。
出会いから16年後に、政子は周囲の反対を押し切って頼朝と婚約。
(北条氏は平氏の分流であり、本来敵対関係の源氏嫡流との結婚は当然ながら反感を受ける)
頼朝との仲は大変仲睦まじく、二男二女を授かった。
壇ノ浦の戦いにて平氏が滅び、奥州藤原氏を滅ぼして東国に政権を集約したのも束の間
頼朝は征夷大将軍に任命されてから7年後に病死してしまう。
この頃、政子は夫の死を切っ掛けに出家して尼となったが
初代将軍の正室であり第二代将軍(および第三代将軍)の母として
「尼御台」の通称を得て
鎌倉政権内で大きな発言権を有した。
(尼御台:戦国期における寿桂尼と同じ敬称。貴人正室への敬称として「御台所」があり
その対象が出家している尼であった場合のもの。英傑大戦では両名とも井上喜久子さんが演じている)
時が経ち、源頼朝の遺児である第二代将軍も第三代将軍も悲劇の結末を遂げる。
鎌倉幕府内の内部政争を見て、これを好機と政権を取り戻す為に
執権:北条義時(政子の弟)打倒を掲げて後鳥羽上皇が挙兵
(承久の乱)朝廷に付くか幕府に付くか、御家人は揺れに揺れるが、幕府の危機に政子が立ち上がった。
「最期の詞(ことば)」と呼ばれる演説を行い、源氏恩顧の将へ一致団結を促したのである。
朝廷軍兵力の10倍にも及ぶ源氏恩顧の将兵(総兵力19万)の動員に成功した幕府軍は朝廷軍に圧勝。
以後、鎌倉幕府は朝廷を監視する目的で
六波羅探題を設置した。
そして、承久の乱から4年後、69歳の天寿を全うして、
鎌倉幕府を護った女傑はこの世を去った。
長兄の英傑大戦:
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