主の邪魔をする奴は、叩き潰してやるぜ・・!源義経の郎党の一人:
武蔵坊弁慶。
一次資料における弁慶の出自はほとんどが不明であり
明確にどのような立ち位置だったのか何をした人物なのかわかってはいない。
今日に知る弁慶の人物像は後世の創作物におけるものであり
創作の中では義経の第一の郎党として活躍する知勇併せ持つ人物とされている。
出生において母の胎内で18ヶ月過ごして生まれた時には既に2-3歳時の姿であった。
この異常な出生から鬼子とされたが助命され、
鬼若の幼少名で過ごした。
後に比叡山に預けられて一時僧侶となった縁で、武蔵坊弁慶を名乗ったとされる。
僧侶とは程遠い乱暴狼藉で各寺を追い出され続けた弁慶はある祈願を行った。
「京都にて道行く武士から武器を千振り奪い続ける」という無茶苦茶な決意である。
999振目まで武器を奪ったが、五条大橋にて1000振目を奪うべく若武者に襲い掛かるが
この優美可憐な男の身のこなしに追いつけず、ついに弁慶は降参してしまう。
この男こそが終生の主となる若き頃の源義経であり、彼の従者として仕えることを決めた。さらに後に、平家が滅び、源氏内では頼朝と義経の不和が決定的なものとなる。
この時の京を落ちて奥州藤原氏へ助援を願いに向かう途中の関所でのやり取りでは
弁慶は何も書かれていない
「勧進帳」を読み、主を叩いてでも難所を突破する機転を見せた。
そのおかげで奥州藤原氏に匿ってもらったのも束の間
藤原氏の代が代わってからしばらくして頼朝の怒涛の圧力によって奥州藤原氏の裏切りが発生。
衣川の戦いと呼ばれる義経追討戦の戦力差は500対10。もはや戦と呼べるものではなかった。
次々と郎党が討たれていく中で、主の最期の時間を稼ぐべく
義経の篭る堂の前で、次々と矢を放たれるも弁慶は倒れることなく応戦し続ける。
そして立ったままの弁慶が動かなくなったことから彼の体をあらためると、既に絶命していた。
主のために文字通り死んでも倒れなかった忠臣ぶりから
「弁慶の立往生」と後世に語り継がれた。
長兄の英傑大戦:
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