軽い軽い!端武者ごとき、重忠の敵ではない!!鎌倉御家人の代表格:
畠山重忠。
誠実にして清廉潔白、質実剛健の武士を絵に描いたような人物であり
「坂東武者の鑑」と評される。
元は源義朝に従った坂東武者であったが、平治の乱にて義朝が討ち取られると一時平家へと従った。
それから20年後、源頼朝が挙兵すると
平家方として初め参戦。
頼朝軍と合流しようとした三浦軍と交戦し、三浦家当主、三浦義明を討ち取った。
この後、再起を図った頼朝に対しては由緒ある白旗を持参して速やかに降伏したとされる。
(ここらへんの状況は、梶原景時と似た立ち回りを取っている)
木曽義仲軍との戦いでは男顔負けの武力を持つ
巴御前と一騎討ちを行い
剛力自慢の巴御前を力で上回り、巴御前の鎧を素手で引き裂く膂力を見せて一騎討ちを制した。
続く一ノ谷の戦いでは勝敗を決定付けた急襲作戦「鵯越の逆落とし」にて
真っ先に飛び出して行った佐原義連に続いて
重忠は馬が怪我をしてはいけないと言って
「馬を抱えて崖を下っていった」とされる。
平家が滅んだ後は鎌倉有力御家人として梶原景時の排斥を求める連判状にも協力。
しかし、自身の嫡子:畠山重保と北条時政の娘婿:平賀朝雅が酒席にて口論となり
これを境にして政敵であった
北条時政が畠山重忠に謀反の疑いをかけた。時政はまず重保を暗殺して、重忠を別件にて鎌倉へ参集するように使いを出した。
鎌倉幕府参集が自身を討ち取るための罠であり
北条軍が自身に差し向けられたことに気付いた重忠は北条軍に立ち向かうことを決意。
兵力100人程度の配下と共に戦うが、衆寡敵わず戦死した。
この
畠山重忠の乱は鎌倉幕府の忠臣を失う結果となり
虚偽の謀反の疑いであったことがわかったことで義時は父:時政と対立。
さらに時政の暴挙とも言えるこの事件によって時政から人心が一斉に離れていくこととなった。
長兄の英傑大戦:
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