これがワシの選んだ一つの道じゃあ!後漢末期、呉国の武将・政治家・外交官:
魯粛。字を
子敬。
徐州下邳国の裕福な家に誕生したが、父が早くに亡くなったが故に、自由奔放な生活を送っていた。
家業を行わずに財産を処分してまで貧困の民を助けようとしたために
一族の者たちからは家を潰すドラ息子であると謗りを受けることも珍しくは無かった。
しかしこれらの行動は地元の名士の噂となり
噂を聞きつけた(後の呉国都督)周瑜が資金・食糧援助を求めて訪れたのである。
その後、始めは他を圧倒する大勢力の長:袁術に仕えるが
あまりの器の小ささに見切りを付けて、以前に交友のあった周瑜の下に向かった。
孫策→孫権と仕えて、孫権に
「北を曹操が治め、南を孫権様が治める:天下二分の計」を語り
後に曹操の南伐が発生するとこれに対して徹底抗戦を主張。
「降伏したのであれば家臣はそのまま曹操に召し仕えられることもあるが
孫権様は処刑されるかいずれは謀殺される。今、降伏論を唱えているのは
降伏した場合に主君がどうなるかを考えず、保身だけを考えてる者たちである」と。
以降、
孫劉同盟の交渉役としても活躍し、降伏論者を退け
対曹操軍となる赤壁の戦いでは、火計および疫病の蔓延により呉軍勝利となった。
周瑜が死去すると本人の指名によって魯粛が軍務を取りまとめ
劉備勢力とは極力争わずに最大の勢力である曹操に対抗するように務めたが
周瑜逝去の僅か6年後に死去。(魯粛は周瑜の後継であるが、周瑜よりも年長である)
かつて周瑜が魯粛を見込んだように、
魯粛もある知勇兼備の者を後継に指名したという。
英傑大戦では旧三国志大戦ver3のイメージで登場。
坂本龍馬のような台詞や口調が多いのは「薩長同盟」と「孫劉同盟」という二つの勢力の同盟を成功させた繋がりである。
土佐藩と呉国が同じ勢力になったのは魯粛を坂本龍馬に見立てた過去があったからかもしれない。
長兄の英傑大戦:
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