なんと、あの佐幕派の急先鋒ともいうべに会津藩に、朝廷側だった楠木正成の孫・楠木正勝(傑堂能勝禅師)が建立した寺「天寧寺」があるとの事で、東北での取材の帰り、急遽、会津若松市に立ち寄った。
天寧寺は、応永28年(1422)、会津に来た傑堂禅師が、11代芦名盛信の依頼を受け開基した寺。
かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院を誇った。
後に、伊達氏の侵攻にあって焼けた為、芦名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみ。
江戸期になり、この地を会津松平家が治めるようになって以来、天寧寺の門前を中心に武家屋敷が建てられた。
また、天寧寺の程近くには、会津松平家の墓所もあり、天寧寺に隣接している事を意識した墓所の配置であった事が窺われる。
つまり、会津松平家もまた、楠木氏を崇敬していたという事を表している。
天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓がある。
戦後、GHQによって楠公の名が消されてからは、天寧寺に参詣に来る人のお目当ては皆、近藤勇の墓所であり、楠木正勝に焦点をあてる人は皆無である。
しかし、本堂の屋根の至る所にはしっかりと菊水紋が掲げられており、この寺が楠氏ゆかりの寺院である事をしっかりと証明していた。
実は、近藤勇は幼少期から太平記を始めとした楠公の伝記を好んで読み、幼い頃から楠公に憧れて育った。
新選組に志願した近藤勇の心中には、やはり楠公精神が宿っていた事であろう。
そんな近藤勇の遺志を偲び、楠公ゆかりの寺院で眠らせようと、新選組の盟友だった土方歳三が遺髪などを持ってきて、会津戦の折、楠氏ゆかりの天寧寺に仮埋葬した。
もちろん、新選組は当時、京都守護代を務めた会津藩の配下として組織されているので、会津松平家の墓所に隣接する天寧寺に新選組隊長が眠る事もよしとしたのであろう。
つまり、当時、佐幕派も尊王攘夷派も、共に、楠公を敬慕していたという事であり、これは今回の取材を通して明らかになった、紛れもなき事実である。
敵味方、思想信条を超えた尊さが、楠公精神にはある。
日本民族のイデオロギーの根幹こそが楠公精神なのである。
4月25日の近藤勇の命日には、墓前祭りが開催されている。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もある。
神社本庁所属神主・楠公研究会代表理事・表千家茶道教授者・池坊教授・作家
楠公末裔の立場から先祖・楠木正成について著した拙著『建武中興と楠木正成の真実』はAmazonからもお求め頂けます→
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