当時貧国でありながら、竹島を不法占拠できたのはなぜか。竹島の歴史と第二次世界大戦後の韓国が日本を翻弄した強引な外交戦略を振り返る。サンフランシスコ平和条約の準備段階での韓国による米国への要望、米国側からのラスク書簡による回答、マッカーサーラインの廃止寸前に突如引かれた李承晩ライン、漁民拿捕から人質外交を展開し、大村収容所の抑留者の釈放や久保田発言の撤回、在韓日本資産の放棄を得る韓国。
参考文献
島根県HP(「竹島資料室」のページ)
島根県HP 竹島資料室 小学生からわかる入門編
竹島 島根県/島根県教育委員会/竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議
竹島資料ポータルサイト 島根県告示第40号
韓国から米国への要望書 ウィキソース
ラスク書簡 全文 ウィキソース
山陰中央新報デジタル 竹島問題と韓国 「ラスク書簡」隠ぺいの責任
外務省HP 米軍爆撃訓練区域としての竹島
wikipedia 竹島問題
wikipedia 李承晩ライン
外務省HP 「李承晩ライン」の設定と韓国による竹島の不法占拠
李承晩ラインと日本漁船拿捕 日本安全保障戦略研究所研究員 藤井賢二
山陰新報1953年07月14日 竹島で巡視船發砲さる /竹島資料ポータルサイト
1950 年代における日韓親和会 「保護事業部」の仮放免事業 一橋大学大学院 李英美
wikipedia 大村収容所事件
衆院 法務委員会 議事録 1955年12月8日
衆院 法務委員会 議事録 1958年2月3日
背景画像:Pixabay
BGM:魔王魂、甘茶の音楽工房