西暦1,205年7月10日
早朝、北条時政の指示が以下2名に下され、由比ヶ浜に謀反人を討つという名目で兵が集結する。
①三浦義村
②佐久間家村
4時、快晴であったこの時、畠山重保も、謀反人を討つという名目で稲毛重成に招かれ、郎従3名と共に由比ヶ浜に到着した。重保は、何の警戒心も持たず、三浦に近付いた。そこに佐久間達が重保の馬を包囲し、重保は奮戦したものの、郎従諸共殺害された。朝、畠山重忠は、布陣していた鶴ヶ峰(現在の神奈川県横浜市旭区)の麓で畠山重保が殺害された事、そして大軍が進軍して来ている事を知った。以下2名は重忠に、菅谷館に立て籠って討手を待った方が良いと進言した。
①本田近常
②榛澤成清
しかし重忠は「鎌倉の一大事に駆け付けるのが武士というものだ、私自身を討つ為であっても、後へは引けない」とし、迎え撃つ事となった。12時、北条義時率いる軍が二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)に到着した。その後、小休止していた重忠の軍を包囲し、矢の雨を浴びせた。16時、4時間程交戦した頃、愛甲季隆の射た矢が重忠に命中した。重忠は「我が心正かれば、この矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、2本の矢を地面に突き刺し死亡した。また、榛澤も討たれた。重忠の死を知った畠山重秀・本田等が自害し、戦闘は終了した。また、菅谷館に居た重忠の妻は家臣達を含む24名で加賀国額田庄(現在の石川県小松市額見町付近)司の下に落ち延びた。その後重忠の妻一行は、重忠の遺命により、稲毛の長男で小沢城(現在の神奈川県川崎市多摩区菅仙谷)主の小沢重政の姉や、綾小路局の養子小沢重量を頼り小沢城へと移り、重忠の妻は小沢城にて篠塚重興を出産した。さらに畠山重忠の四男畠山重慶は上古寺(現在の埼玉県比企郡小川町)の祖父畠山重弘の弟畠山重遠を頼り、そこに遺髪を埋葬し、五輪塔を建てて弔った。その後重慶は慈光寺(現在の埼玉県比企郡ときがわ町西平)に登り剃髪して、第27世慈光寺別当に就任した。
宇宙一元化 公式HP
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