今回の勉強会は愛知県弥富市の重要文化財「服部家住宅(旧荷之上城)」にて開催。
15代目服部家ご当主からお話を伺った。
伊勢楠氏と共に、同じく南朝方として吉野時代から共闘してきたのが、服部氏だ。
服部氏といえば、楠木正成の妹の嫁ぎ先として、また、観世家とも血縁がある家筋として、余りにも有名である。
服部氏の団結力は非常に強く、伊勢長島攻めの際の服部家棟梁・服部左京亮友貞は、織田勢を迎え討つべく、河内一郡荷ノ上に館を築いた。
友貞は、戦国乱世を生き残る為には、一向衆に帰依する北伊勢の豪族や僧侶・門徒らの、反信長の力の結集が必要と考え、天文17年(1548) 本願寺を訪れ、 長島願證寺と交歓して結びつきを強めた。
当時、北勢48 家と呼ばれた土豪の多くは長島願證寺の国侍門徒であり、 友貞との結びつきにより長島願證寺は一大勢力となった。
永禄3年(1560) 、友貞は狭間の戦いで今川義元に加勢し呼応して、軍船で大高下から熱田湊を荒らしたが義元に利あらず、信長を討つ好機を逸した。
長島一向衆で重きをなした友貞を信長は大いに恐れた。
永禄11年(1568)正月、服部友貞は、楠木正具の求めに応じ、南朝の盟友・多気城城主の北畠具数の元へ年賀の挨拶の為、出立した。
その途上、楠木正具の地盤である北伊勢・米野山蔭涼庵に逗留した。
この時、友貞は、信長の謀略に遭い、信長の家臣・柴田勝家の軍勢に取り囲まれ、蔭涼庵で自刃した。
服部友貞公の墓碑は今も、蔭涼庵のすぐ傍に残っており、代々墓守をされてきた畑中家が今に至るまで毎年、服部友貞公の法要を取り行っておられる。
神社本庁所属神主・楠公研究会代表理事・表千家茶道教授者・池坊教授・作家
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