兵士への命令を伝えるラッパ(ビューグル)。ラッパ手にとって、ラッパは生涯にわたって大事な武器だ。
今年67歳になる潤沢琦さんは、北京軍区で活躍した元ラッパ手だ。
<元北京軍区のラッパ手 潤沢琦氏>
「子供の頃から軍人になりたいと思っていた。男なら軍人になるべきだと思った。軍隊での生活に憧れていた」
1974年、21歳なった潤さんはついに夢を叶えた。
銃をもって国のために戦うことを夢見ていた潤さんだが、中隊長にラッパ手が適任だと言われた。
潤さんはその時のことを今でも鮮明に覚えている。
<元北京軍区のラッパ手 潤沢琦氏>
「ラッパ手なんかにはなりたくないと思った。でも中隊長と腹を割って話すとこう言われた。ラッパ手になりたくないと聞いたが、覚えておいてほしい、何の役にも立たない人はいるが、役に立たない仕事はない。ラッパ手になるなら、最高のラッパ手になれと」
若くて気概に満ちた潤さんは、中隊長が言うような立派なラッパ手になろうと決意した。しかし、上手なラッパ奏者になるのは簡単なことではないことにすぐ気付いたという。
<元北京軍区のラッパ手 潤沢琦氏>
「ラッパを吹くことはとても難しい。音をすこし上げようとすれば、裂けるような音になる。毎日吹いていると唇から血が出る。1日の終わりに楽器から血だまりが流れた。ラッパ手になれる人は何でもできるんだと思ったほどだ」
その後も潤さんは、一生懸命に練習を続けた。半年後、50人のラッパ手の中でも抜きん出た存在になった。そしてこの時以来、ラッパ手の使命はラッパを鳴らすだけの簡単な任務ではないことを認識した。
潤さんは「すべての兵士がラッパ手による軍号の指揮に従って行動する。軍号は部隊の魂だ。軍魂だ」と語る。
潤さんのラッパの音は、毎日兵営にこだました。
「ラッパ手は部隊の時計みたいなもので、毎日、1分1秒のずれもなく、数十回ラッパを鳴らす。私は正しい時間を一度も逃したことはない。そのような間違いは許されない。私はすでにそれを自分の天職と考え、最善を尽くすよう努力してきた」と潤さんは言う。
潤さんは1989年に退役した。しかし、ラッパは彼の生活の一部であり続けている。
数十年前の古い写真、軍功勲章、すべて彼の軍人時代のすばらしい思い出になっている。
今でも軍人のルールで自分を要求し、孫たちに軍人時代の思い出を聞かせている。
「孫たちには、おじいさんがラッパ手を務めていたよ、ちゃんとこれを受け継いでと言っている。孫たちに教えたら伝統は失われない」と潤さんは言う。