「桜雨」
終わりが、始まった。
時計の針が12時を回って、少し。
「起きてる?」
そう、問いかけられた。
「起きてるよ」
答えたのは、私だ。この部屋には、二人しかない。二人だけで暮らしてきた、二人だけの静かなお城だ。
「ごめんね」
「なんで謝るの、ヤコ」
「マコのこと、追いてっちゃうから」
「そんなのどうってことないよ」
「だけど」
「大丈夫」
私は、精一杯強がって言う。
「ヤコのこと、信じているから。たくさん、綺麗な写真を撮るんでしょ。必ず、帰ってくるんでしょ。それまで、私、ここを守るから」
「……ありがと」
もうすぐ、朝が来てしまう。まだ真夜中だ、と思っていても、ちくたくと針は進んでいく。
しっとりとした春独特の夜は、なんだか物悲しい。
新しい芽吹きの香りを連れてくる夜を深く吸い込むと、その冷たさが凛と肺に染みた。
「もう起きたの、マコ」
「ヤコこそ、まだ4時半だよ」
「ふふ、なんだかそわそわしちゃって」
「どうせ楽しみなんでしょ、今日からだもんね」
「うん。女優さんは先に入っているから」
「ヤコたちが行けば撮影始まるんだよね」
「そう。マコってば、あたしよりもあたしのこと把握してない」
「そんなことないよ」
そう言って、私は目をそらした。
ヤコのことを、ヤコ以上に知っているのは、当然だとも言えた。ヤコのことを、私はずっと想ってきたのだから。
ずっと、ずっと。でも、それが恋とか愛とか、そういう感情ではないような気がして。ううん、そういう感情『ではない』とはっきりわかっていて。つまりは、ヤコと私は幼馴染で同居人である以上でも以下でもないのだ。
桜の花が、はらりとベランダに舞った。
私が一番に好きな花。でも、今はなんだか憎たらしかった。
新しい春は、終わりで、始まりだ。
私たちは同じ小学校、中学校で育ち、同じ高校に通って、同じ大学を受験し、違う学部で学んで、今の道に進んだ。
だから、ヤコは写真家として。私は画家として。今から新しいスタートを切るのだ。
この部屋に住み続けるには思い出が多すぎる。最初、引き払おうとヤコに相談したのだが、ヤコは「戻ってくる家と、マコのアトリエが欲しいから」と却下した。
「はい」
差し出されたのは、湯気の立つコーヒーだ。私たちが気に入るたびにおそろいで買ったマグカップ――その中でも、一番のお気に入りのもの――に、注がれている。
「ありがとう、ヤコ」
「あたし、絶対に有名になるからね」
「……私だって」
「あーあ。こんな春なんて、来なきゃよかったなぁ」
「どうして?」
「だって。マコと――」
そこまで言って、ヤコは口をつぐんだ。マグカップを包む手に、やりきれない気持ちが一緒に包まれていた。
「ヤコと、ずっと一緒がよかった」
「マコ」
「私。ここで待ってるから。ヤコが帰ってくる家にするから。だから、安心して」
私はそう言って、精一杯、笑って見せた。
頬を伝った雫を、二人とも見なかったふりをした。
結局、6時の新幹線に乗っていくヤコを見送るために、私もそのまま起きていた。
「忘れ物ない?」
「うん、大丈夫」
ヤコはきちんとした襟のシャツと、カジュアルすぎない、けれど綺麗なシルエットの上着を着ていた。
特別なおめかしというわけではないけれど、門出に相応しい格好だと言えた。
「ヤコ」
「なぁに」
「……ばいばい」
「ふふ、違うでしょ」
そして、ヤコは笑った。
「またね、だよ」
私は何も言えなくなって、ヤコのことをぎゅっと抱きしめた。最後にヤコは、また何かを言おうとして言わずに、私たちの終わりへ向かって走り出した。
桜の雨が、ヤコの姿をかき消す。私はそれを見送って、初めて気が付いた。
「……喉、渇いたなぁ」
私は呟いた。応えるものはなかった。
ケトルでお湯を沸かしながら、マグカップがたくさん並ぶ棚を目指して歩く。
ずらりと並んだマグカップには、全部、ぬぐい切れない思い出がある。私は、これらを抱えてヤコを待つ。そう決めたのだ。
それなのに、涙が出る。
いつも通りのブレンドコーヒーが、今日はやけに、苦かった。
原作 金森璋「桜雨」
Produce 残響レコードボカロ制作部
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