求菩提山の歴史は近世に書かれた「求菩提山雑記」に6世紀以降の猛覚魔卜仙(もうかくまぼくせん)による開山(526年)や、その後704年の役小角の入山、そして、720年の行善による求菩提山護国寺の建立などが求菩提山の古代史として残っていますが、その真偽はともかく、山頂から5~6世紀のものとされる須恵器(朝鮮半島から)が見つかってることから、6世紀頃から渡来系の雑密僧による開山が推測されています。
その後、12世紀に宇佐出身の辛島氏の系統(新羅系)の頼厳が護国寺入りし(平安時代)、中興の祖となり14世紀(室町時代)には、皇室から送られた彦山の雲仙寺の座主・助有法親王(安仁親王)によって始まった「黒川院」が求菩提山の如法寺(ねほうじ)も配下に置き、法親王が所属する天台宗寺門派の聖護院門跡(本山派修験)の傘下に入り、求菩提山も彦山修験の傘下に入ります。
16世紀に黒川院が黒田長政の息子の忠之によって破壊された後は、歴代の領主が座主となっていた如法寺が求菩提山信仰の主導権を握りますが、その如法寺を支えた
天台宗寺門派の聖護院門跡が求菩提山修験をリードしていく形になり、明治前まで続いて行きます。
明治の神仏分離で求菩提山護国寺も妙法寺も破壊され、明治に政府によって確立された神社神道の下、国玉神社が作られますが、今でも求菩提山祭祀は明治以前の火祭りやお田植祭などが行われています。