林羅山は、朝鮮の朱子学者カンハンから学んだ藤原惺窩を師とし、封建領主を君主とする封建体制の支配体制を正当化する朝鮮朱子学の流れを汲み、支配者は除外し、たみだけに性即理の実現の道徳的努力を強要する朱子学思想を引き継いだ。
君主に賢人聖人たる努力を求めない朝鮮朱子学の思想は封建支配体制を正当化するものとして徳川幕府に重宝され、羅山も徳川将軍家のブレーンとして天台僧天海や臨済僧崇伝らとともに徳川指南役として活躍することとなった。
さらに羅山は、朝鮮朱子学のもう一つの特徴としての強い廃仏思想に裏打ちされ、仏教的解釈を一切排除した日本書紀の分析を行い、中国儒学独特の考証主義によって中国や朝鮮の歴史書と日本書紀の記述を突合し、日本書紀のみにみられる箇所はことごとく否定し、
特に突合ができない神代の部分は作り話として切り捨て、天地開闢や天孫降臨の部分も実は中国の呉の泰伯が九州の高千穂に漂流して神武天皇となった事実の粉飾であり、その後の8代の天皇やヤマトタケルは架空の存在で、太極であるクニタチノミコトの理の反映である歴代天皇が朱子学的道徳律に沿って日本の歴史は作られたと、日本書紀の記述をことごとく儒教的に書き換えていった。
これを林羅山の理当心地神道と言い、神道という名の儒教神道説で、のちの国学者たちからは厳しい批判の的となるものの、羅山に続く日本の朱子学者や陽明学者たちの間ではあるいみ共通した日本書紀解釈となっていったのである。