本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれ、8歳で寺子屋に学び、11歳で父を亡くし、16歳で商売見習のため江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿していたが、19歳で松坂に帰省すると、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰り、このころから和歌を詠み始めた。
22歳になると義理の兄が亡くなったため実家のあきないを継ぐが商売に関心はなく、店を整理して母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学することとなった。
京都では医師で儒学者でもあった堀景山にに師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。
景山は朱子学者でありながら反朱子学の荻生徂徠にも興味を示し、また国学者契沖の支援者でもあった。
宣長は、景山の影響で荻生徂徠や契沖の思想にも出会うこととなり、これが契機で国学への道を歩むことを決意したのである。
27歳になった5年後には地元松坂に戻り医者として開業し医業をはじめることになった。
そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励み、そして33歳になった時、大和から江戸への帰途で伊勢神宮に参宮しようとしていた賀茂真淵が松坂に泊まっていることを知り、宿を突き止めて真淵に邂逅し、いわゆる「松坂の一夜」という生涯で一回限りの真淵との面会を実現したのだ。
その後、真淵の門下生となった宣長は松坂と江戸との間の往復書簡による教授を受け、その関係は6年間続くもものの、正風体で書かれた万葉集ではなく、異風体で書かれた源氏物語や新古今集に興味を示した宣長は真淵の逆鱗になり絶縁されることとなった。
その後宣長は、71歳で世を去るまでの30年以上の年月を古事記解釈研究や日本語の仮名遣いや文法研究に費やすこととなり、その努力の結果は、「古事記伝」「玉勝間」『源氏物語玉の小櫛』『漢字三音考』などの形で結実することなった。
宣長は、古事記、万葉集などの万葉仮名という漢字当て字で書かれた書に出てくる固有名詞を従来の漢字訓読みから宣長本人が編み出した大和魂の読み方として字音仮名遣いをあてたことは、その後も日本で定着することとなり、あたかも古代よりそのような読み方をしていたのでは?と勘違いしてしまう人が続出するほどであった。