藤田幽谷の息子の藤田東湖と水戸藩士・会澤正志斎は、幽谷が始めた私塾青濫舎で四書五経などの儒教の書とともに儒教的な農本主義的な経世救民論、および水戸藩や日本全体を取り囲む国際情勢を学び、同時に剣術や槍術などの武道も学びつつ、文武両道の実学の大切さを教えられた。
幽谷が生きていた時代は、班内の旧守派・保守派の反対や妨害もあって実現しなかった幽谷の儒教的道理に基づく藩改革は9代藩主武公水戸斉昭の時代になると積極的に取り上げられ、実践されていったものの、商品経済貨幣経済が発達した19世紀に時代錯誤的な儒教的な農本主義政策はまったく効果がなく、また、江戸幕府が迫りくる外国勢力に対して弱腰の姿勢を取りづつける現状を片目に水戸藩では会澤正志斎や藤田東湖らの尊王攘夷論は高まりを見せ、次第に幕府への批判が強まる中、とうとう藩主斉昭も藤田東湖も蟄居の処罰が下り、斉昭は強制隠居も命じられて4年間、東湖は8年間の蟄居生活を余儀なくされることとなった。
会澤正志斎は「新論」を著し、平和ボケしてる幕府や諸藩の危機管理意識の低さを厳しく批判したが、その内容があまりにも過激すぎたために当時の藩主哀公斉修に上呈したものの、出版は差し控えられた。
一方、藤田東湖は8年間の長い蟄居生活の間に「弘道館記述義」や「回天詩史」などを執筆し、彼自身の歴史観や尊王攘夷論を訴えた。
この両者の著作は、水戸藩のみならず、この両者に会いに来た、長州の吉田松陰、高杉晋作や薩摩の西郷隆盛など、その後討幕の主力勢力となった勤王の志士たちにも多大な影響を与えた。
しかし、藤田東湖の死後、彼がまとめてきた班内の尊王攘夷過激派たちは暴走を始め、桜田門外の変や天狗党の乱を引き起こし、水戸藩内は保守派の諸政党と急進派の天狗党との間の血で血を洗う熾烈な内部抗争が続き、明治維新を挟んでの報復合戦の末、ついには水戸藩出身者が新政府の一翼を担うことなく終わってしまうのであった。